2016年4月30日

有地和毅さんの「背景本」

 

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移動式の小さな本棚が二台。普段は押入れの下段に収まっている。本棚全体を目にすることはほとんどない。押入れの生暖かい暗がりに手を突っ込んで目当ての本を引きずり出してくる。新しく手に入れた本は手前でも奥でも収まりそうなところに差しこんでしまう。以前、引っ越しの際に本を段ボール箱にしまってしまったので、この本棚は半分空っぽの状態からじわじわと埋まってきた。本棚を出すと猫が寄ってくる。

 

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有地和毅

あゆみBOOKS小石川店/書肆CHOOSE YOUR WEAPON

共謀する人です。共謀しましょ、そうしましょ。ところで、あなたは書肆CHOOSE YOUR WEAPONという本屋を知っていますか?実用書を専門に扱っているめずらしい本屋で、そこにある本はすべて「武器」として「実用」できるそうです。あなたも読んだ本を実際に使ってみてください。世界が変わります。

 

家の棚

本棚①

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本棚②

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 棚の本は実用に備えて組織化されるが、直線的な棚の並びから逸脱する領域、棚板と本の間に差しこまれた本はつながりの糸/意図をゆるやかに振りほどく。文脈のほころび、局所的拡張、無関係なものの貫入が生起するのは、”一時的に”そこに置かれた本によってである。一時的に置かれた本が堆積して地層化する。棚が時間を孕むのは一時的な配置の積み重ねにおいてのみである。棚が整理されればその時間の流れはリセットされ、無時間的な文脈が棚を固着させる。棚を整理することは棚の時間経過をゼロに戻してしまうことである。棚の文脈が機能しているのであれば、棚は文脈が生成された時点のまま静止している。文脈の変化こそが棚における大きな時間の経過である。しかし過去の文脈は記録されないため、棚を見るときには一時的な堆積による小さな時間の経過を認識するのみである。

 本自体にも時間の経過を見ることができるだろうか。色や手触りの変化によって。表紙や組版の様態によって。しかし棚を前にした私にとって、棚の文脈が生成された時点でそこに置いてあるものとしての本が生成するので、それ以前には遡ることができないのかも知れない。新たな文脈に組み込まれることで、その本をめぐる記憶も遠ざかっていく。いつどこでどのようにその本を手にしたのか。棚を前にしても思い出せないことが多い。というより、ある時点より前に遡ることが難しいのである。この棚の時間はひとつの大きな変動からほとんど静止している。住環境が変わり、一から棚に入れる本を選んだその時点から前の本についての記憶がぼやけてしまっている。

 それでも小さな時間の経過を示す一時的に置かれた本のなかから、記憶がフラッシュバックするような本が何冊か見つかった。一時的に置かれることになった経緯と、それにまつわる思考を記述していく。

 

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チャック・パラニューク『ファイト・クラブ』(早川書房)

 これは新装復刊された時に手に入れたもので、私の記憶の糸が絡みついた本ではない。その本は失くしてしまった。絡まった記憶の糸の中心は空洞になっており、そこにこの新しい本が据えつけられるのだろうか。過去に読んでどこかへやってしまった本を再び手に入れて読む。同じ本であって、同じ本ではない。そのようにして再読することとよく似た感覚を私は知っている。水膨れの皮膚を知らずに掻き毟った時だ。力を加えた爪の下でずるりと表皮がずれる。トマトの湯むきとも似ている。少しの手応えもなく覆われていたものが剥がれ落ちて肉が暴かれる。それが再読の機序と一致するわけでもないのに、結びつけないわけにはいかない。表皮のずれるイメージが意識を塗りつぶしていく。ぱらぱらとページをめくりながら、私は明確にひとつのフレーズを探し出そうとしていた。それがこれである。

 「ぼくはジョーの荒れ狂う胆管です。」

 

 

菊地成孔『スペインの宇宙食』(小学館)

 『レクイエムの名手』(亜紀書房)という菊地成孔の追悼文集が刊行されると聞いて、この文庫を段ボール箱から引きずり出し、ぺらぺらと読んでから棚の隙間にすっと差したのだった。

 菊地成孔を知ったのは高校生の時だった。卒業してから劇団を始めた先輩がいて、面識はなかったのだが、彼のブログを読んでいた。ある日の記事で、彼は「菊地さん」の日記で自分の送ったメールが言及されたとはしゃいでいた。私の通っていた高校では、教養主義的な態度(と言っても極度に軟化したもの)を共有するコミュニティが私の3年か2年上の学年で途絶えてしまっており、彼はその最後の世代であった。彼らのロールモデルのひとりが菊地成孔だったのである。

 とは言え、私は菊地成孔のことをいつの間にか知っており、いつの間にか読んでいた。出会いの瞬間が強烈に思い出せることがどのくらいあるだろう。先輩のブログをスナック菓子程度の軽い嘲りとともに眺めていた時には既に何冊か読んでいたのだろうし、菊地成孔の音楽も耳にしていたのだと思う。前後関係がひどく曖昧にしか想起されないのは、この文庫もまた後から手に入れたもの(恋人の父親にもらったのだったと思う)だからかも知れない。実際にその時に読んでいた本に触れれば、あらゆる細部が鮮明に想起されるだろうか。

 

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『現代詩文庫28 白石かずこ詩集』(思潮社)

 レコードショップのサイトで『Dedicated to the Late John Coltrane (ジョン・コルトレーンに捧ぐ)』を試聴して白石かずこを知り、しばらく経ってから通っていた高校の近くの古書店でこの本を手に入れた。まず声として触れた詩に、印字された状態で再会する。それはまさに再会と言うべきものだった。読み進めながら「MY TOKYO」という詩に差し掛かった時に、再会は「起こった」。意識の上での発声もなく意味の認識だけで読んでいた文字列が白石かずこの声にすり替わり、声の支配がしばらく続いた。声はこう言っていた。

「五千年死ぬことと 五千年生まれること

 五千年アクビをすることと 五千年笑いつづけること

 それは愛以上のものであろう」

 

 

「旅」を終えて

 引っ越して間もない上に、棚を頻繁に整理するので、棚はのっぺりした現在としか見えなかった。ところが棚から本を抜き出し手に取ってみると現在は綻び、少しずつ記憶が湧出した。棚の文脈の中に置かれた本はその文脈が有効である限り、現在という時間のゼロ地点にある。本を引き抜いて文脈から引き剥がしてしまえば、その本が固有の時間をまとっているのだとわかる。現在から遊離するだけで、記憶は自動再生される。個別の本にアクセスするには棚から引き抜かなければならない。そのことが驚くほど鮮烈に感覚された。

 


 

店の棚

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 店の棚は絶えず入れ替わる。商空間にはほとんど現在しかなく、棚や平台はフラットなディスプレイに流れるTwitterやInstagramのTLに似ている。そう考えると、書店の店頭にタグをつけられないことがひどく不自由に感じられないだろうか。あゆみBOOKS小石川店の音楽書の棚には「#音の本を読もう」という棚がある。Twitterで「#音の本を読もう」というタグをつけて紹介した本を中心に並べているため、この棚はツイートの検索結果一覧に限りなく近い印象を与えるだろう。

 このTLに擬態する棚からどのような本棚旅行が可能だろうか。商空間の現在性を離脱するにはやはり棚から本を引き出してみなければならない。しかし、いつもいじっている棚なので、過去への糸口は一向に見出せない。何度も何度も左から右へ、上から下へ、棚を走査するうちに、最下段にあった『J・A・シーザーの世界』(DU BOOKS)が目についた。

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 すると思い出した。記憶の自動再生が始まる。高校生の時分、横浜の駅ビルにある書店で『天井桟敷/阿呆船』(ブルースインターアクションズ)を手に入れた。上演時の音声が収録されたCDがついていた。同じくCDのついた『天井桟敷/邪宗門』も棚に差してあったのだが、門よりも船がいいだろうといったような理由にもならない理由で『阿呆船』を選んだ。それからしばらくして、学校でMDに録音した『阿呆船』を聴いていた時のことだった。「何を聴いているの?」とどうやら知り合いらしい男子学生が私に話し掛けてきた。『阿呆船』を聴いていると答えると彼はすぐさまこのような質問をした。「何故『阿呆船』なのか。つまり、何故『邪宗門』ではないのか。」それに対してどのように返答したかは覚えていない。なにしろ大した理由がないのだ。それきり彼のことをすっかり忘れた。

 

あゆみBOOKS小石川店

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